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賽は投げられた

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『みずうみ』読書感想文

本日の日記はよしもとばななさんの『みずうみ』感想文です。長くくどいいだけの文章ですあしからず。


***************************************************
今日行った本屋で、いつも漫画ばっかり買ってるんだけど欲しい漫画が無くて久しぶりに文庫の棚にいってみたら
私の好きなよしのとばななさんの著書「みずうみ」を見つけたので読んだ。
読んだって言うか今読んでる。今、ちょうどクライマックス?物語の確信的なところで中断してこれを書いている。
昔は、本を途中で、しかも読んでいる途中で止め、しかも他のことをするなんて出来なかった。
途中でやめるのはごはんの時間か、もしくはもうこの本は読まない、と決めたときだけだった。
これが年を取るっていう事かしら。

でもいつも、読み終わっちゃうと満足して、感想を書けなくなってしまうのでちょっと中断。
それが勿体無いからちょっと書いてみる。自分のためにも覚えておきたいメモなのです。


私はよしもとばななさんの本が好きだ、
年を取ってどんどん本を読むのが苦手になり、いまじゃほぼよしもとさんと村上春樹さんの著作しか読まないが、この二人の本は文庫が出ていれば必ず買うし、買った本は全部とってあるし、何度も何度も繰り返し読む。
この二人の文体が好みで、そして私は好みの文章を読んでいると精神的に落ち着くので、人生のしんどい時期はいつもこの人たちと隣り合わせだ。
あんまり繰り返し読んでいるので、今ではそれらの本を読んでいると当時の記憶がががががーと蘇ってくるくらいだ。
そのせいか、最近はあまり読み返していない。思い出すと疲れてしまうからね。

恋をしている時や怖い気持ちだった時に聴いた音楽にその記憶が宿るように、文体にもまた私の心は映るのもだ、と思う。


そして今日久々によしもとさんの本を読んで、私が何故彼女の話を好むのかがちょっとわかった。
彼女の本には死んだ人が、死ぬ人が、いなくなる人が沢山出てくる。
「キッチン」のお母さんしかり「悲しい予感」の主人公の家族しかり、例え亡くならなくても喪失・大切な人がいなくなる、という話がとても多い。
私はそれを読むことで、きっと母を思い出しているんだろうな、と思う。
母を思い出し、同時に失われた幸福について思いを馳せることが出来るから彼女の小説が好きなのだ。


彼女の小説では、喪失というものが過去形で書かれることが多いように思われる。
過去に失った何かを、それにより壊れたり変わったりした何かを、不完全であっても修復し続け、そこにある幸福を満喫することが人生だ、というのが私が受ける印象だ。
登場人物は過去の出来事を考え、何かを探り、受け取ったもので自分を再構築し、いかに生きるかを考えている。

今まではその
「人生のピークは失われてしまったが、自分は日々を楽しく幸福に生きる術を知っているし、今の自分が出来ることをやりたいようにやっていく」
というスタンスが見える(これは村上春樹さんにも見える)のが好きなんだと思っていたが、どうやらそれだけでは無かったらしい。
今日気付いた。その思考をちょっとおすそ分けしてもらうことが出来るから好きなんだ。

ある事柄について主人公が考察する。そこには喪失についてのことがほぼ含まれる。
そして喪失の中にいるのは主人公だけではなく、別視点の喪失もそこには存在する。
ていうか世界は喪失に満ちていて、それらは全く異質であり同質である。
「喪失」であるという事は共通しているが、しかし失われたものが他人と全く同じということは無く、それに対する思いだって各々別である。

主人公は自分の喪失や、他方の喪失に対し、分析したり羨んだり尊敬したり蔑んだり哀れんだりただ許容したりする。
その主人公の感情に対し、読んでいる私自身が同意したり反発したり、何らかの感想を好きに持つことが出来るから好きなのだ。

私は彼女の小説を読んで、これをこうしなさい、と言われる気があまりしない。むしろいつも「あなたはどう思う?」と言われているような気がする。
(一部を除き)そこに正しいものも間違っているものも無いからだ。世界がちゃんと混沌なのだ。
理解し会う必要が無いから、そこにあるものについて私も好きに考えることが出来る。
好きに考え、自分がどう生きたいか、なにを大事にしたいのか考えることが出来る。

そして、希望を持つことが出来る。例え相容れない価値観の世界に住んでいても、道はちゃんと交わっていると。


そこに付随して、具体的に母親について考えることが出来るのがいい。
彼女の話にはよく「両親」が出てくる。その人たちについて何かを考えることで、私も母を思い出すことが出来てとてもいい。

私は母親のことをあまり覚えていない。
自分が小学三年生の時に癌にかかり、闘病を経て中学二先生で亡くなっているのが、それはもう14年も前のことなので頭の悪い私はほとんど思い出せないのだ。
世間一般の示す母親の定義がわからないのだ。入院が結構あってあんまり家にいなかったしね。


しかし全く忘れたわけではなく、姉と話している時は「そういえばあんなことがあったね」「こんな人だったね」などぽろぽろ出てくる。
逆に言えばスイッチが無いと思い出すことが困難なのです。
つまり、自分にあまり負荷がかからず母のことを思い出すのに、彼女の小説はうってつけなのだ。
私の中に無いイメージを押し付けられず、ただそこにあるエピソードに対して
うちの母親はああだった、こうだったと好きに考えることが出来るから。
いつも思い出す。強くて優しくてちょっと弱くておかしくて、とても興味深い人だった。もう話が出来ないことがとても残念です。

このことについても、物語のの中の人たちに許容されるような気がするのもとてもいい。
あんなに愛されてたのに、母をほとんど思い出せないという罪悪感が拭えないんだ。
親は先に死んでしまうものだし、もう少し年を取れば気にならなくなるのだろうけど、今は覚えていないって言うとけっこうまわりに驚かれたりするから。
でもこれが私の形なんだよ。


うーん、文章が上手くないのでどうしてもちゃんと文字に出来ない。
会話もそうなんだけど、いつも長上になってしまうんだよね。昔から、要約することがとても苦手です。
思うことの一角だけ形にしても、それを含む全体像は見えないって言うかなんて言うか…だめだ上手く言えない。
語彙が足りないし構成力が足りないしほんっと言葉って難しい。でも大好きです、日本語。
話をすっごい端的にすると、自分がとても幸福だってことなんだ。


もしここまで読んだ人がいたらちょっとすごい。超ありがとう。
良かったら私と話をしてください(笑)


自分を再構築する旅に気軽に出られる、小説って本当にいいものですね。
昔私の大好きな某文豪が「映画館はその気製作所」というような内容のとてもいいエッセイを書いていたが、まさにそんな感じ。

いつか世界の全てをただ受け入れることが出来る日が来ますように。
そんな希望を持って、私は文章を漁り続けています。
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